昨日僕を含めて6人(うち2名はオッサン※もちろんそのうちの1名は僕)でとある企画会議を行っていた際に「良い子」という表現が出たのだが、このワードが非常に気になる1日だった。
昔「欽ドン」で「良い子・悪い子・普通の子」というコーナーがあったが、当時の良い子は
山口良一氏演ずる七三分けヘアーの眼鏡君で、父親役の欽ちゃんのツッコミ質問に的確な(と思える)回答をしていた。
いわゆる優等生・ガリ勉タイプで時にその答えがまっとう過ぎて、見ようによっては融通の利かない、洒落のわからないつまらない息子に写っていたことなんかを思い出した。
最近はめっきり僕自身が「良い子」という表現を使わなくなってしまったのだが、前職時代は毎日のように「良い子」という言葉を耳にしていた。
毎日学生と面談をしていたカウンセラー達、或いは企業の採用を支援するコンサルタントから、「良い子なんですけどねぇ~何か足りないんですよね!」といった具合に使われていたのが代表的な例である。
そもそも俗に言う「悪い子」、つまり犯罪を犯したり、ルールや道徳を無視するような人間の方が少ないので、本来は「普通の子」か「良い子」の方が大多数なわけである。
なのにどうしてわざわざ「良い子」なんていう表現を使うのだろうか?使っていたのだろう?
果たして現在において「良い子」とは一体どんな人間なのか?
分からない!
昨日の企画会議の話に戻るが、そこで議論したことがそのヒントになってきているように思う。
大学キャリアセンターの職員と企業の「良い子」の定義に大きなギャップがあるということである。
一般論で言うと、大学キャリアセンターの職員の「良い子」とは、前述のような優等生或いは大人の期待通りのまっとうな回答をする学生であり、企業側の求める「良い子」とは、自社に貢献に目に見える成果(代表的なのは売上)という形で貢献できる学生を意味するケースが多いのだ。
実はこのことは当たり前のように見えて非常に大きな問題だ。
人材教育する側の大学が、受け入れ側である求める企業(便宜上経済界とする)が本当に求めている人物像を理解できていないということが、もし仮に一般的だとするならば大問題なのだ。
大学は単なる就職予備校ではないが、一国を支える人材を輩出するための教育機関であることは事実である。
その教育機関が主な人材輩出先である企業の需要を明確に把握していないとすれば、これは本末転倒である。
また企業側も、もっと明確に情報開示・情報発信する必要もある。
単にコミュニケーション能力が高いとか、論理的思考力があるとかではなく、もっと具体的な資質・性格・能力・スキル・資格を明示すべきなのだ。
もちろん、大学も企業も最低限のベースの上に成り立つ能力やスキルが均一である必要はない。
大学には独自の建学の精神があり、企業には経営理念が存在する。
お互いがそれをベースにした人材育成と採用に沿った活動を情報開示をする必要がある。
漠然と「良い子」を育て、「良い子」を採用するという曖昧な方針だけでは、今まで以上に両者のギャップは拡がっていってしまう。
基本的に大多数は「良い子」のはずなのに。